FC2ブログ
オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
『日本軍「山西残留」――国共内戦に翻弄された山下少尉の戦後』に対する評、感想
仙波藤吾氏(山下正男氏と同様、山西残留、抑留を経て帰国)

『日本軍「山西残留」』有難く拝読させて頂きます。この大冊に私たちが駆け抜けてきた山西残留事件の隠れたる本質を改めて解明することが出来るものと思っています。

日本国憲法が公布されたのは1946年11月、日本は大陸から兵士をすみやかに母国に帰還させる国際的義務を完了させる任務があった筈でした。命令と服従にさいなまれた兵士は、敗戦をよろこび、父母のもとに戻る日をまちこがれたものでした。

私が敗戦を迎えたのは山西省襄垣県。無線通信手であった私は、誰よりも早く敗戦を知りました。その朝部隊の副官やらが通信班に来て、天皇の詔勅を聞いたものでした。

布川246大隊の撤退がはじまるとともに、通信隊の軍鳩は全部殺されました。部隊長の山羊も豚も殺されました。首都太原への逃亡者のような行軍が連日続きました。

途中、沁県では大激戦のあとで、解放軍や民兵の死骸が城外を埋め、それを処理することがありました。

太谷では全員が集められ、第一次帰国者の規準が報告されました。①病人であること ②家に妻子をもっている者 ③家系を継ぐ者 等だったと存じます。

私は健康であり、五男であることから、除外でした。

残留の理由は、残った者が帰国者を鉄路で安全に送るために「護路隊」を組織するが、任務が終れば次は「お前たち」の帰国だというわけである。

中国解放軍の進撃の前に第二次はなくなり、軍司令部と山西軍のあいだの密約なのか特務団が編成されていった。

私は第6団要員として中国人(山西軍)の教育に派遣されました。当時、日本軍の特務機関(名を変えて資源調査社)から無線手の要請があって、第6団から出向の形で参加したのでした。

仕事は、晋冀魯予辺区、太行軍区等の中共軍の電報を窃取して解読することであった。中国側は梁化之、日本側は持田国福で、20人ほどが便衣を着て、情報を得る者、無線傍受に携わる者と分かれて、太原城内に事務所をかまえていた。

急速な解放軍の攻撃で太原は四面楚歌。もはや運命尽く。もっとも恐れたのは、特務分子として捕われること。慌てふためいて太原から逃亡。私が第6団にいたときの中隊長田中竹夫(戦死)の要請で第1団に行くことになり、日本刀(自慢の新古刀)を置いて飛行機で逃げていった。1948年10月だった。

その月の末、私は太原東の四畝吃塔で解放軍の捕虜となった。

このあとは山下氏と同じ道すじを歩んだのであり、いずれ機会があればと存じます
スポンサーサイト

テーマ:感想 - ジャンル:本・雑誌

トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
Copyright (C) 2008 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。